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葛藤と逡巡と妬みと嫉みと
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 朝5時に起床。
 空は曇っている。なんだか今日も気怠い感じ。スッキリと晴れていればきっと気分も良いのだろうけど、曇っていると……イマイチ。今日も何処にも行かないでボーッとしているんだろうなぁ、などと考えながらしかし、それではいかん、とりあえず何か身体を動かそうと朝から洗濯機を回す。
 僕には不思議な性質があって、洗濯機をスタートさせた時に蓋が開いていると、じーっと洗濯槽の回転を眺めてしまう。行程が「すすぎ」になり蓋が開いてるとアラームが鳴るのだが、そのアラームが鳴るまで見続けてしまうという、なんとも不思議な性癖なのだが(別になにが面白いと言うわけではないのだけれどもね……)、今日もその状態になってしまい、ハッと突然気が付いて、慌てて洗濯機の蓋を閉めて、洗濯機が回っている間、シンクに大量に重ねてある食器を洗った。

 食器洗いが終わり、洗濯物を干し、もう一回洗濯機を回して、遅番で出勤する奥様を送り出し、またベランダで洗濯物を干して、金魚(名前をオレンジという)と亀に餌をあげて、遊びに行く子供達を送り出して……と気が付いたら午後1時になってしまった。リビングに座ってテレビを点けたら一気に脱力して、もう、今日もゴロゴロしていればいいかな……なんて思い始めていたら、テレビで欣ちゃんの生家の事がやっていた。
「へー、欣ちゃんって上野出身だったんだぁ。会社から近いな」なんて思って窓から空を見上げると、なんと曇っていたはずなのに晴れているではないか。

天気は良好


 晴れている空を見ていたら、何処かへ出掛けたくなり、ムズムズしてきた。欣ちゃんの生家の事をテレビで見たので、
「そうだ、オレの生家を見に行こう。写真に納めておこう」
 と思い立った。
 幸いそこは自転車で行ける距離だ。愛車CAAD8に空気を入れて、コンパクト・デジカメを一つ持ちイソイソと出掛ける事にした。

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 もう、自分が生まれた(と言われる場所)へは何年行ってないだろうか。実は病気で休職していた頃、雨の中一度訪れた筈なのだけれども、病気だったせいもあり記憶がかなり曖昧。なので意識がハッキリした状態で行くのは恐らく20年ぶりくらいかもしれない。
 就学前に生活していた場所なのに、不思議な物で、迷うことなくすいすいと行ける。そしてあった……。いや、ない。

生家?


 見事に駐車場と化していた。

 写真手前左側に二階建ての小さな中華料理屋(いわゆるラーメン屋)があって、そこの二階が僕の生家だったと子供の頃母に聞いたことがある。その生家の事に関しては全く記憶にないのだけれども、写真の右側に写っている白い建物の奥、線路づたいに当時木造の、なんて言うのかなぁ……学生相手の下宿というのかな、玄関もトイレも共同で階段なんかハシゴを斜めにしたような、当時からすでにオンボロだった屋敷があって、たぶん僕の母親とそこの大家が仲が良かったのだろう、大家夫婦の所へ良く遊びにいった記憶はある。
 大家は大のネコ好きで、大家と下宿人全て合わせても、人間よりネコの方が多いんじゃないかって言うほどネコがいて、ネコが屋敷全体を我が物顔で闊歩していた。僕も良くネコにくっついて下宿宿を闊歩していた。下宿人の住む部屋には鍵などなく、ネコと一緒に自由に出入りしていたが、住んでいる下宿人はみんな大らかだったのか、気持ちよく迎え入れてくれて、一緒に遊んでくれたり、キャンディーを貰った記憶がある。今じゃ考えられないことだな。30年以上前の当時だって褒められた事じゃないと思うが。

 そんな記憶を蘇らせながら、僕はまたペダルを漕いだ。

 実は僕は私生児で、しかもいわゆる母の内縁の夫、僕の父は僕が「記憶」と言うのを持つ前に亡くなってしまった。なので母は昼は病院の調理師として働き、夜は知り合いが経営するスナックで女給(今時こんな言葉使うのかな)として働いていた。
 スナックなので当然仕事が終わるのは深夜だ。なので僕は母の仕事が終わるまでスナックの2階にある経営者の自宅で母を待っていた。経営者には当時高校生くらいの女の子が2人いて僕の面倒を見てくれていた。母の仕事が終わるまで起きていると言ってきかなかった僕を辛抱強く面倒見てくれたのだ。まあ、結局母の仕事が終わる前に我慢できず寝てしまうのだけれども。

 そのスナックがあった場所は先ほどの生家(があった場所)からすぐ近くだ。駅に向かって真っ直ぐ行くと、ある。

スナック跡


 建物は残っていた。が、様子がちょっと違う。
 建物右の、丁度郵便受けがあるところは当時扉になっていて、二階に上がる急な階段が中にあった。たぶん今は中から上がるように改造されているのだろう。この建物の後ろには妙正寺川が流れていて、10坪程のこの店の一番奥にトイレがあり、そこで用を足していると窓から川の流れが見える。大雨の日なんかは黒く濁った水が大量に目線の近くまでどうどうと流れてとても不気味だったのを覚えている。ルービック・キューブが流行ったのも、この店に出入りしていた頃だと記憶している。

僕の砂場


 その店からさらに駅の方へ向かうとT字路になる。角には風呂釜とかトイレとかを売っている店があり(昔ここで戸川純ののぼりを見たので間違いないと思う)そこに防火用の砂場がある。写真の木の蓋が載っているのがそれである。
 僕はココを防火用ではなく、お遊び用の砂場として遊んだ。
 小さな頃だから、ここにすっぽり入ってもまだスペースがあったのだ。父親が生前沢山ミニカーなどを僕に買ってくれていたようで、ミニカーや小さな鉄で出来た電車の玩具は豊富に持っていた。ここでトンネルなんかを作りミニカーや電車を通して遊んだりした。そして遊び終わると、この砂の中に玩具を埋めて帰った。たぶん僕なりの合理化ゆえの行動なのだろう。何も持って来なくても、砂を掘れば玩具が出てきて遊べるのだ。
 さすがにそんな事はないだろうが、もし、砂が当時から取り替えられていなければ、掘れば僕の玩具が出てくる筈だ(酸化して残骸だろうけど)。さすがに今、ココを掘る勇気はないが。

育った家付近


 この、母がスナックで女給をしてた時に住んでいたのが上の写真の場所。左側のアパートだ。
 といっても、こんなに立派な物ではなく、当時は木造2階建て(だったと思う。ガッチャマンごっごをして、階段から落ちた記憶があるから)のオンボロアパート。正確にはこの写真に写っているオレンジ色のアパートの奥だったような気がしないでもない(かなり曖昧)。手前の駐車場は当時からこんな感じの駐車場だった。駅のすぐ側だったが、改札はホームの逆サイドで、子供の足では結構な距離があった。
 ここに住んでいた初期はたぶん父親も生きていたと思う。でも、父親はここに住んでいたのだろうか? 父親の記憶が全くないので、解らないけれども、まあ、母と結婚出来ない何か理由があったのだから、住んではいなかったのだろうと思う。

 当時幼稚園はもちろん保育園にも通っていなかった僕だけれども、何故かこの頃は友達がいた。このアパートの玄関先で女の子が遊びに来ればママゴトをして、男の子が遊びに来れば風呂敷を首に巻いてガッチャマンごっごをして遊んだ。運動神経は当時から鈍かったので良く外階段やブロック塀の上から落ちた記憶がある。いや、本人はもしかしたら本気で飛べると思って飛んでいたのかもしれない。

 スナックの仕事が終わって深夜、母は僕をオンブして毎日この家に帰ってきた。今はないけれども、家から見て線路の向こう、川を渡ったところにマンション用の給水塔があった。夜は何故かこの給水塔が街路灯に照らされて眩しく光っていた。僕は眠い目を擦りながら母の背中越しにこの光景を見て、深夜ラジオはこの給水塔から放送されているんだと、何故か信じて疑わなかった。

中井の街並み


 さすがに30年もの時間が経つと、当時の建物が残っているのが不思議なくらいで、今ではとても綺麗で整った街並みになっているけれども、当時は上の写真のような建物ばっかりで、しかもその当時からもう建物は、築何十年も経っているんじゃないかって言うような、ハッキリ言ってしまえばとても綺麗とはお世辞にもいえない街並みだった。まあ、年月が経てば街並みが変わるのは当然の話で、別に昔のまんま残って欲しいなんて思わないけれども、でも、記憶にあるモノが現存していない、と言うのはちょっとばかし悲しいし、記憶にあるモノがその姿のまま残っているとちょっと嬉しい。

通ってた保育園


 年中組の途中から通い始めた保育園は解体工事が始まっていた。工事用のアコーディオン・ゲートがある所は、かつてプールだったところだ。たぶん建て替え工事なんだろうけど、記憶の光景が今まさに壊されようとしている光景は、なんだかいたたまれない気がする。
 実はこの保育園の前には「オノダの森」と言われた個人の私有地なんだけれども木がうっそうと茂った森があって、いわゆる「○丁目 ○番地」の「○番地」全てが(つまり1ブロック全て)森だったのだ。その森の真ん中にポツンと家が建っていたようなのだが、当時子供達はその家を一目見ようと川口浩よろしく探検に行くのだが、一度森に入ってしまうと日中でも暗く、子供達の間では「一度入ると出られなくなる」などという今きくと笑っちゃうような都市伝説にもならない噂がささやかれて、とうとう仲間内でオノダの森の中の屋敷を見る者はいなかった。意気揚々と入っていっても、みんな途中で泣きながら帰ってきちゃうのだ。そしてキャッチボールなどをして、誤ってボールが森の中に入ってしまったら、もうそのボールは二度と自分の手元に帰ってはこないと子供達は誰もが信じていたし、実際そうなった(怖くて誰も取りに行かなかっただけだが)。それくらい恐ろしい森と子供達には信じられていたのだ。なのでこの森に入って虫を捕るなんて事はしなかったと思う。
 今、地図で見るとたいした広さではないが、4~5歳の子供達のスケールだ。とてつもなく大きかったのだ。

小野田の森跡


 現在「オノダの森」は細かく切り売りされて、住宅がこれでもかと言うくらいひしめきあっている。
 鬱蒼と天高く、空を覆い隠すほど伸びていた木々は今はもう無く、閑静な住宅街に姿を変えてしまった。しかしそれは時代の流れでやむをえない事だろう。
 ココが当時、子供達が恐れおののいた森だった事を伺わせるような面影はもう何一つない。

LUMIX DMC-FX01
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プロフィール
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Ocha
年齢:
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性別:
男性
誕生日:
1972/11/25
職業:
会社員
趣味:
多数
自己紹介:
 若い頃は転々と職を変え、一時は教習所の教官を経験するも、結局古巣の建設業に戻り、現場監督から、現在は設計者に。
 酒と煙草と家族と亀を愛するアラフォー万年平社員。

 そして職歴と同じようにブログも転々とし、三度地面の下から復活。殆ど時事ネタを書かない、情報としては全く価値のない私的な内容を送る、読んでも全くタメにならない、どーしよーもないこのブログへようこそ。

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