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葛藤と逡巡と妬みと嫉みと
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 昭和も終わりに近づいている頃だったと思う。いや、昭和が終わるなんて当時誰も思っていなかったけどの中学二年生くらいの頃だっただろうか、国語の先生に詩集を借りた(未だに返していなくて手元にある)。新川和江という、とても僕のお袋に似た女性の詩集だ。その中の「日常の神」というタイトルの詩というのか随筆というのか……、とにかくその出だしの数行に僕の心は留まった。

 単一で純粋な行為などというものがあり得るだろうか。またなにものをも傷つけぬ優しさなどという徳目が。
 わたしの動作は渋滞を示しはじめ、もの言いは日増しにたどたどしくなっていった。というのも、なにげなく窓を開けたり、背中のファスナーを引き上げたり、玉葱の皮を剥いたり--というごく日常的な行為のあいまあいまに、わたしの耳はしばしば、得体の知れない悲鳴を聞くようになったからだ。わたしは窓を開けながら、とほうもないなにかを一緒に開けてしまったのではないか。ファスナーを引き上げついでに、なにかを共々アルミ色の歯に銜(くわ)え込ませて、永遠に封じてはならない掟のものを、強引に綴じ合わせてしまったのではないか。

思想社刊 現代詩文庫64 新川和江詩集「日常の神」より引用



西陽



 心に留まったものの、理解は出来なかった。理解したような振りをしていたような気がする。では今は理解しているのか。それは甚だ疑問である。しかし、僕は何か事がある毎にこの一節を思い出すのだ。「単一で純粋な行為などというものがあり得るだろうか」と、自分自身に問いただすのだ。「人によっては」などという但し書きなどいらない。自分自身に問いかけるのだ。問いかける毎に答えは違うかもしれない。もしかしたら答えなどないかもしれない。でも自分自身に問いかけずにはいられない時がある。そうやって自分自身を振り返る。ほんの微塵も単一でしかも純粋な行為(行動)などあっただろうか。
 踏み越えることの出来ない理想と現実とのギャップ、そして何よりも自分自身の心の中に潜むどろどろとしたスープ状に煮えたぎる混沌に今日も僕は恐れおののくのである。


Nikon D90+AF-S DX NIKKOR 16-85mm F3.5-5.6G ED VR

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1972/11/25
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自己紹介:
 若い頃は転々と職を変え、一時は教習所の教官を経験するも、結局古巣の建設業に戻り、現場監督から、現在は設計者に。
 酒と煙草と家族と亀を愛するアラフォー万年平社員。

 そして職歴と同じようにブログも転々とし、三度地面の下から復活。殆ど時事ネタを書かない、情報としては全く価値のない私的な内容を送る、読んでも全くタメにならない、どーしよーもないこのブログへようこそ。

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